湊ノ濱~濱寺間営業廃止日時

 今回は大阪市電阪堺線(三宝線)の湊ノ濱~濱寺の営業廃止日時について、調査します。

新阪堺電車が大阪市に買収された1944年(昭和19年)4月1日に、湊ノ濱~濱寺間が営業休止になったけど、いつ営業廃止になったかわからないんだよね。

この間見たネットには❝湊ノ浜 – 浜寺間は、大阪市電阪堺線として運行される事なく買収と共に休止となり、1945年(昭和20年)8月15日付でそのまま廃止された❞。と書いとったよ。

でも、私が大阪市交通局の局史を調べても、営業廃止日はよく分からんかったよ。

では、湊ノ濱~濱寺間の営業廃止日を調査してみましょう。

湊ノ濱~濱寺間について

 まず、1937年(昭和12年)の地図を用い、新阪堺線(湊ノ濱~濱寺間)、南海本線及び阪堺線を明示した図を下記に示します。

浜寺周辺地域の鉄軌道

図11 浜寺周辺地域の鉄軌道と新阪堺線廃止区間

 図1より湊ノ濱~濱寺間では新阪堺線、南海本線及び阪堺線の3線が非常に接近していることがわかります。新阪堺線は旧26と呼ばれる府道34号、204号線上を併用軌道として敷設されていました。
【阪堺線・石津北停留場は2015年(平成27年)2月開業のため、当時は存在していない。】

1937年(昭和12年)当時は阪堺線の電停として、「海道畑」が南海本線オーバークロス部にあったけど、今はなく、逆に「石津北」は2015年(平成27年)2月に開業したんで、1937年にはなかったんや。

大阪市交通局の局史の記述

CHIKAは大阪市交通局のどの局史を見ましたか?

せやな、百年史、七十五年史、そして五十年史やな。

では、それぞれの局史について、その記述を時代を遡りながら、見ていきましょう。

 大阪市が新阪堺電車を買収した後に発行した局史は以下の3つになります。
・大阪市交通局百年史(本編)(資料編)
・大阪市交通局七十五年史
・大阪市交通局五十年史
 それぞれの記述を下記に示します。

大阪市交通局百年史(本編)(資料編)

 2005年(平成17年)に発行された本書は、大阪市電廃止から36年、新阪堺電車買収から61年経過しているため、記述は簡潔です。
 ❝大阪市は、市域西南部芦原橋から大和川を渡り、堺市浜寺公園に至る14kmの阪堺電鉄を、昭和19年4月1日付で買収統合した。❞2のみが記述されています。
 次のページにさりげなく「表2-1-6 阪堺線(三宝線)開業状況」として、阪堺線の芦原橋~湊ノ浜間11.200kmが1944年(昭和19年)4月1日に開業した3ことだけが記述されており、湊ノ濱~濱寺間の経緯(営業休止及び営業廃止とも)は記述されていません。

大阪市交通局七十五年史

 1980年(昭和55年)に発行された本書は、新阪堺電車について、2/3ページに亘り、簡潔にまとめられた記述4がされています。
その中の「表2-1-20 阪堺線(三宝線)開業状況」として、百年史と同様の記述に加え、備考として❝統合と同時に次の区間は営業休止する。休止年月日 昭和19年4月1日 湊ノ浜~浜寺 2.700キロ❞5が記述されています。
 しかし、上記区間の営業廃止日については記述されておらず、「図2-1-3 終戦時営業路線図(昭和20年8月現在)」では湊ノ浜~浜寺間の路線が消失している6ことから、1945年(昭和20年)8月には既に営業廃止されていることが示唆されています。
 また、「表2-1-29 休止路線廃止状況」には阪堺線・出島~湊ノ浜間0.500kmが1945年(昭和20年)3月13日に休止、1960年(昭和35年)10月20日に廃止になったことが記述7されており、休止路線の廃止も記述されていることから、湊ノ浜~浜寺間が例外的に営業廃止日時が記述されていないことがわかります。

大阪市交通局五十年史

 1953年(昭和28年)に発行された本書は、新阪堺電車について、「阪堺線買収」として章立てられ、6.5ページに亘り、買収に至った経緯が詳細に記述8されています。
 買収とともに実施した内容が3つ記述されており、その中の第2項に❝営業休止区間 湊ノ浜~浜寺間 2粁7❞9が記述されています。
 しかし、七十五年史と同様に「終戦時路線図(昭和20年8月現在)」では湊ノ浜~浜寺間の路線が消失10していますが、営業廃止に関する記述は認められませんでした。

結局、湊ノ濱~濱寺間の営業休止日は1944年(昭和19年)4月1日なのは間違いないけど、営業廃止日はCHIKAの言う通りよくわからないんだね。

公文書による調査

そこで、公文書を調べることにしました。まず、大阪市立公文書を調査し、次に、国立公文書館で調査をしました。

大阪市立公文書館での調査

ただし、私の探し方が悪いのかもしれないけれど、残念ながら、大阪市立公文書館では成果は得られませんでした。

国立公文書館での調査

国立公文書館で公文書を調査していたら、重要な証拠が見つかりました。以下、説明します。

営業廃止実施届

写真1 大阪市電阪堺線・湊ノ濱~濱寺間営業廃止実施に関する公文書11

 監督官庁の文書がある国立公文書館で公文書を調査した結果、写真1の大阪府発・道第517号(昭和19年9月15日付)の『大阪市營軌道阪堺線一部營業廢止實施ノ件』が見つかり、別紙として大阪市発・電庶第47号ノ2(昭和19年7月1日付)『營業廢止實施届』が添付されていました。同文書の記載内容は❝昭和十九年六月三十日付鐵業監第九二六號ヲ以テ御許可相受候軌道運輸營業廢止ノ件昭和十九年七月一日ヨリ實施仕候❞12となっており、鐵業監第九二六號で許可された廃止を1944年(昭和19年)7月1日に実施したことが報告されています。

営業廃止許可

写真2 大阪市電阪堺線・湊ノ濱~濱寺間営業廃止許可に関する公文書13

 写真2にある鐵業監第926号は『大阪市電湊ノ浜浜寺間軌道運輸營業廢止ノ件』となっており、❝湊ノ濱、濱寺間軌道運輸營業廢止ノ件許可ス❞、❝右廢止ハ昭和十九年七月一日ヨリ之ヲ實施スベシ❞14とあり、湊ノ濱~濱寺間の営業廃止は1944年(昭和19年)7月1日であることが示されています。

考察

今回の調査で、湊ノ濱~濱寺間は1944年(昭和19年)4月1日から営業休止し、同年7月1日より営業廃止したことがわかりました。

ということは、大阪市電阪堺線(三宝線)は1944年(昭和19年)4月1日から6月30日まで、芦原橋~濱寺まであったんやな。実質は従来どおり、芦原橋~湊ノ濱やけど。でもなんで局史には記述がなかったんやろか?

大阪市交通局の局史に記述がなかったのは、軌道事業廃止に関する書類が何らかの理由で見つけることができなかったんだと、ボクは思うよ。

参考文献

  1. 『堺市街全図 昭和12年 都市計画路線明細』、和楽路屋発行(1937)を管理人「しゅらく」が新阪堺線、南海本線、(現存する)阪堺線の路線及び駅・停留場を追記加工した。 ↩︎
  2. 大阪市交通局編,『大阪市交通局百年史(本編)』,大阪市交通局発行(2005),137pより引用した。 ↩︎
  3. 大阪市交通局編,『大阪市交通局百年史(本編)』,大阪市交通局発行(2005),138pを参照した。 ↩︎
  4. 大阪市交通局編,『大阪市交通局七十五年史』,大阪市交通局発行(1980),68-69pを参照した。 ↩︎
  5. 大阪市交通局編,『大阪市交通局七十五年史』,大阪市交通局発行(1980),69pを引用した。 ↩︎
  6. 大阪市交通局編,『大阪市交通局七十五年史』,大阪市交通局発行(1980),70pを参照した。 ↩︎
  7. 大阪市交通局編,『大阪市交通局七十五年史』,大阪市交通局発行(1980),77pを参照した。 ↩︎
  8. 小島 誠 著、『大阪市交通局五十年史』、大阪市交通局発行(1953),102-108pを参照した。 ↩︎
  9. 小島 誠 著、『大阪市交通局五十年史』、大阪市交通局発行(1953),108pを引用した。 ↩︎
  10. 小島 誠 著、『大阪市交通局五十年史』、大阪市交通局発行(1953),107pを参照した。 ↩︎
  11. 国立公文書館所蔵、『軌道特許・大阪市電・昭和18~21年』を撮影した。 ↩︎
  12. 国立公文書館所蔵、『軌道特許・大阪市電・昭和18~21年』より引用した。 ↩︎
  13. 国立公文書館所蔵、『軌道特許・大阪市電・昭和18~21年』を撮影した。 ↩︎
  14. 国立公文書館所蔵、『軌道特許・大阪市電・昭和18~21年』より引用した。 ↩︎